旧 めざせ立派なテレマーカー since2002/8/22
プロフィール
HOME
山行記録
プロフィール
会津百名山
リンク
学生時代
高校山岳部
私の登山との出合はムサコー高校山岳部からです。
都立高校の運動部ですから、まあ、ボチボチですかね・・・・。
とはいえ、私にとってはこの部活がイヤで堪らなかったは食事。白米夜1.5号、朝1.2号は悲惨でした。今でも偏食ですが、当時の方がもっと偏食でしたから(笑)。
他に6日間の合宿の最中ず~と水を飲ませてもらえないなど非科学的なところもイヤでした。
退部できるものならすぐにでも退部したかったのですが、結局退部できませんでした。
でも、今となってはいろいろ役立つ知識、地形図の読み方とかコンパスワーク、天気図の書き方(←これは役に立っていない?)などなどいい面も沢山あったなぁ~と思います。
大学少林寺拳法部
大学に入学したとき、高校山岳部のOB会からいかに逃れるかばかり考えていました(爆笑)。
当時の『掟』では、大学の山岳部かワンゲル部に入部すれば、OB会に入会しなくて良いという噂を聞いていましたので、一時期、真剣にワンゲル部への入部を考えていたものです。(ケーキと紅茶もご馳走になりました。)
しかし、再び何を思ったのか、入部したのは少林寺拳法部・・・・いまだに動機がはっきりしないのですが、OB会から逃れることと、一瞬の気の迷いがあったのではないかと振り返っています。いずれにしても、大学4年間は少林寺拳法部で山とはまったく縁のない生活をしていました。(卒業時には弐段(2段)でしたが、現時点で特に何かの役に立ったということは、一切ありません。)
とはいえ、この頃はバイクツーリングや徒歩旅にも興味があって、ちょこちょこ出歩いていました。今と違って地元の方も旅する若者に寛大で食事や風呂などぜいぶん助けて貰いました。
社会人~日本百名山ハンター時代
大遠征時代
社会人になって埼玉県の工場に配属になりました。当時、田舎住まいの楽しみといえば、夜中に車で走り回る(注意:族ではありません)か、あちらこちらに出来はじめてきたカラオケボックスに行くかくらいしかありません。
この頃、Soigaと出会って、特に意味もなく再び山に登り始めました。とはいえ、それ程夢中というわけでもなく、バイクツーリングや野湯探し旅とほとんど変わりなく”遊びの1つ”という感じです。まあ、徐々に遊びが登山に集中化したという感じでしょうか。
この頃の山は比較的空いていましたし、体力も余っていましたので、急速な勢いで百名山を制覇していました。現在、登頂は80座後半で、完全制覇まであと僅かとなりました。
テレマーク前夜
ラッセル、ラッセル・・・
転職して実家のそばの千葉に移り住みましたが、ちょうど地元で山岳会(というかハイキングクラブ)設立の動きがあって初期段階から参加しました。そのメンバーとあるとき正月の安達太良山に登った際、ワカンジキで四苦八苦ラッセルしている我々を悠々と追い越していく山スキーを見かけ、「山を滑ること」に対し興味が沸いてきました。
しかし、山どころかスキー場ですらほとんど滑れないゆえ、まだまさか自分が山を滑るなんて夢にも思っていませんでした。
テレマーク前夜 その2
クロカン時代
あるとき、ショップのクロカン体験に参加しました。
ちょっとした角度でもコロコロ転がってなかなか前に進まないけど、野山を歩くようなときにはなかなか楽しい道具ではないかと思い、その直後にダブルキャンバーのエッジ付きウロコ板とバックルなし革靴を購入。ソロとかSoigaと2人で近場をふらふら歩き回っていました。
磐梯山のイエローフォールまでその道具で歩きに行った帰り、新野路温泉の露天風呂でとあるベテランテレマーカー(大師匠)にお会いし、その翌週にはなぜか(?)そのウロコ板で”あの”安達太良山の山頂に立っていました(笑い)。恐ろしいものです。
・・・・そして、現在
山滑りの虜に!
実はこのホームページは、安達太良山ツアー直後すでに構想があり、そのシーズンの終わりにはオープンさせました。
一般的に、この手のホームページは「すっごく滑りが達者な人」か「すっごくあちらこちら滑っている人」若しくは「すっごく珍しい場所を滑っている人」が 開設することが多いと思いますが、極普通、イヤはっきり言って『下手な初心者』が開設している例はほとんど見かけられず、”自慢型”ではなく”教えを請う 型”として目新しいと思ったのです。
いつまで経っても基本コンセプトは変わっていません。
動画の公開も基本的には、”上手い人から教えを請う”というものです。(是非、アドバイスをお願いします。)
また、このようなスタンスに立っていますので、
詳細なルート、時間、装備等々記録類は記載していません
。あくまでも、我が家の遊び日記的なものとなっています。